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2021年01月17日

お知らせ

排泄は大切

1995 年 1 月17 日 私たちは未曾有の大災害を、(映像をとおして)目の当たりにした。

阪神淡路大震災である。“平和ボケ”とまでは言わないにしても、平和や文明は「今日も明日も…そして未来永劫つづくもの…」と根拠もなく漠然と思っていた私たちには、あの映像は衝撃であった。まるで怪獣映画か、地球上のどこか見知らぬ国の紛争地域を見せられているようで…。しかし、あれは間違いなく「このニッポン…神戸」なのだった。

被害状況や被災者の数が連日刻々と報道されたが、その中で、あまり大きく取り上げられなかったが、恐ろしく悲惨な、そして盲点ともいえる重要な事実があった。

それは、餓死者と自殺者がことのほか多く出た…ということだ。

たしかに当初は、ほぼ“初めての経験”ともいうべき甚大さに、救援・復旧作業や支援物資の輸送配給等の遅れが生じるなど、対策やシステムの問題はあった。しかし“その事実”は復旧作業が進み、物資も充分に行渡るようになった後…つまり震災そのものとは直接関係のない“二次的被災”なのだった。

ではその理由はなにか? 答えは意外なことに「トイレが足りなかった」…ということだった。聞いて一瞬…絶句したが、これはまぎれもない真実なのだ。

全ての生きるものにとって、食べることと出すことは不可欠…つまり『食事と排泄』は2つでセットなのである。

ゆえに支援も、食べることを保障したならば、出す保障も応分にしなければバランスを欠き…生きていけないのだ。

「非常時にトイレなんて…、昔のことを思えばどこでだって…」と多くの方が言われるであろう。一義的にはそれも同感である。しかし排泄とは言うまでもなく、美味しく食べることができ、かつ健康であるからこそやってくる生理現象で…正に“生きている(幸福の)証”なのである。それゆえ、その行為が「どこで・どのように」成立するかは、人間として「自尊心を保てるか、崩壊させられるか」の分水嶺であるもあるのだ。

これは、なにも被災地での話や教訓ではない。私たちのすぐそばにも、そんな“被災者”が毎日いる。

だからこそ『排泄は大切』なのだ。

※ 『新しい排泄介護の技術《序文より》』(中央法規出版